タイが好きになると、次に興味が出てくるのが「タイの歴史ってどんなだろう?」ですよね。
わかります。わかります。私もタイが好きになって、観光地などを一通り調べたあと、「タイの歴史について興味」がでたので、あなたの気持ちが深く理解できます。
結露から言うと、タイの歴史を知れば、以下のようなことが理解できます。
- 「チェンマイやアユタヤ」が古都と言われる理由
- タイ人が今もなお、ミャンマー人に好意的ではない理由
- タイの歴代の王様
バンコクやアユタヤは、タイ国内の大人気観光地の1つです。タイの歴史を知ると、もっと好きになること間違いなしですよ!
今回の記事は、タイ国政府観光庁が認めるタイの専門家、タイランドスペシャリストの私が、「タイの歴史」をザックリとご紹介するので、安心して読み進めて下さいね!
「タイの歴史」を簡単に分かりやすく見ていこう!
タイに興味が出てきた方が気になるのが、「タイの歴史」になります。実は、タイも長い歴史がある国なんですよね。
「古都アユタヤ」とか「古都チェンマイ」と言う言葉を聞いたことがあると思います。古都があるということは、昔はその場所が「タイの中心の1つ」だったということですよね。
タイ好きの方は、タイのおおまかな歴史を知っておくだけで「タイ旅行の楽しさが倍増」しますよ。
タイの王朝の移り変わり
タイの歴史で最初に知ってほしいのが、「タイの王朝の移り変わり」になります。
タイの王朝は以下のような変遷をへてます。
- スコータイ王朝
- アユタヤ王朝
- バンコク王朝
それでは、スコータイ王朝から確認していきましょう!
スコータイ王朝
タイ人の祖先は、中国の南方が起源となっております。漢民族から逃れるタイ族は南下を続けます。その後、タイのスコータイに王朝を成立させます。
それがスコータイ王朝の始まりとなります。「シーインタラーティット」が初代の王になります。
ラームカムヘーン王
シーインタラーティット王の息子が有名な「ラームカムヘーン王」です。スコータイ王朝の隆盛期は、3代目ラームカムヘーン王の時代になります。
ラームカムヘーン王は、タイのお金の「20バーツ札の裏側」に今でも存在しています。この王様で有名なのが、「ラームカムヘーン大王碑文」と言う石碑です。
ラームカムヘーン大王碑文
19世紀に、モンクット王(ラーマ4世)が「ラームカムヘーン大王碑文」を発見します。
ラームカムヘーン大王の偉業が称えられる内容や、「王が国家の父たる存在」である等の内容となっております。
「王が国家の父」との考え方が、のちの王や政治家やサリット(政治家)及びプミポン王(ラーマ9世)に影響を与えます。
ちなみに、ラームカムヘーン大王が、「タイ語の基礎を築いた」とも書かれてるそうですよ!
スコータイ王朝の衰退
ラームカムヘーン大王の死後、スコータイ王朝は徐々に衰退に向かいます。その後、隆盛してきたのがアユタヤ王朝になります。
スコータイ王朝は、ながーい年月をかけてアユタヤ王朝に呑み込まれていきます。
では次は、アユタヤ王朝を確認しましょう!
アユタヤ王朝
アユタヤ王朝が「ようやく落ち着きかけ頃」に、隣国であるミャンマーから攻撃を受けます。その時に活躍したのが「スリヨータイ王妃」です。
スリヨータイ王妃は、アユタヤ王朝のチャクラパット王の妃で「王を守る為」に戦死します。しかし、結局はミャンマーの属国になります。
英雄ナレースワン登場
ナレースワン王の時代についに「ミャンマーから独立」します。ミャンマーが何度も制圧をもくろんで侵攻してきますが、独自の武術を用いてことごとくこれを撃退します。
その際に用いられた武術が、「今のムエタイの原型で」あると言われています。
ナレースワン王は「THE KING 序章~アユタヤの若き英雄」という映画にもなっておりますし、50バーツ紙幣の裏側に今でも存在してらっしゃいます。
アユタヤ王朝の繁栄
ヨーロッパで人気を集めた香料を求めて、各国の商人が東南アジアにやってきました。アユタヤは、多くの外国人が居住する国際都市となります。
この時代にアユタヤは繁栄を極めます。ちなみに、山田長政が活躍したのはこの頃になります。
日本人も多く移り住んできたので日本人町ができますが、長政の死後その日本人町も共に廃れてしまいます。
アユタヤ2回目の属国
ミャンマーから独立したアユタヤですが、再度ミャンマーに攻め込まれて属国となります。しかも、今回はミャンマー軍の支配下におかれることとなります。
したがって、1回目はアユタヤ王朝の崩壊とはみなされてませんが、2回目は完全なアユタヤ王朝の滅亡となりました。
ここにアユタヤ王朝400年の幕が降ろされました。タイ人が今でもミャンマー人に好意を抱いていなのは、これが要因だと言われてますね。
バンコク王朝
ミャンマーが中国との戦争の中で、徐々にアユタヤに対する圧力が弱めていきます。そんなときに、「タークシン」が新しくトンブリ王朝を建てます。
しかし、15年続いたトンブリ王朝も、タークシン王がクーデターで部下に処刑されてあっけなく終焉をむかえることになります。
ラマ1世がバンコク王朝を建てる
ラマ1世がトンブリの対岸のバンコクに「バンコク王朝」を建てます。ラマ1世は、王室儀礼の復活や仏教復興に力をいれました。
観光地として有名な王宮や、ワットプラケオ(エメラルド寺院)を建てて、他にも新しい寺院を建立します。
※バンコク王朝は、「チャクリー王朝やラタナコーシン王朝」とも呼ばれています。
ラーマ4世と9世
ラーマ4世(モンクット王)は、前述した「ラームカムヘーン大王碑文」を発見した人物になります。ラーマ4世の父親はラーマ2世になります。
イギリス人家庭教師の「アンナ・レオノーウェンズを招いた王様」といえば思い出す人もいるかも知れないですね。映画「アンナと王様」でも有名な人です。
ラーマ9世(プミポン国王)
プミポン国王は説明がいらないくらい有名な王様です。タイ各地を巡行して、現代のタイの礎を築いた人です。ですので、タイ国民から絶大なる敬愛を受けています。
王様が自ら書いた著書に「奇跡の名犬物語」という65万部のベストセラー本があります。王様のとっても温かい人間性がじんわりと伝わってくる良作となってます。
チェンマイの歴史
ランナータイ王国の首都はもともとチェンライでしたが、1296年、メンラーイ王がチェンマイに遷都しました。
遷都の際、メンラーイ王はスコータイ王国のラームカムヘーン王とパヤオのガムムアン王を招き、都市の計画を練りました。
その結果、チェンマイはスコータイの都市設計の影響を受け、従来のラーンナーの都市と異なり、川沿いではなく少し離れた場所に碁盤の目状に建てられました。
チェンマイの建設場所は、元の侵攻を避けるため、また中国との貿易に有利な場所に選ばれました。
チェンマイはラーンナー王朝の首都
その後、チェンマイはラーンナー王朝の首都として発展しましたが、1558年にビルマのタウングー王朝の支配下に入りました。
1701年、ラーンナー地域は南部と北部に分かれ、チェンマイは南部の首都となりました。18世紀後半にはビルマの力が弱まり、ラーンナー地域は内乱状態に陥りました。
1796年、カーウィラはビルマ軍をチエンマイから追い出し、チャクリー王朝の支援を受けてチエンマイを再建しました。これが現在のチエンマイの基盤となっています。
1899年、チエンマイは、現在のタイの県の1つとなりました。
まとめ
今回は、「タイの歴史」を簡単に分かりやすくザックリと解説しました。
まとめるとこんな感じです。
- チェンマイやアユタヤには、かつて王朝が存在した
- 歴代の王様は、タイの紙幣に今も生きている
- タイの王様は、タイ国民から本当に愛されている
タイの歴史を少しでも理解すると、タイへの興味がさらに増してきますよね!